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酉松の布教と天理教弾圧
天理教によって死ぬ寸前だった1人息子が助けられ、その奇跡を目の当たりにした酉松は熱心に布教に歩くようになりました。
しかし、そこには厳しい現実がありました。
当時、内務省から「秘密訓令」が発令され、天理教は警察によって厳しい取り締まりにあっていたのです。
秘密訓令とは、明治29年4月6日、内務省訓令甲第十二号で、天理教をつぶせという内容のものでした。
警察に追い回されるだけでなく、一般民衆からの誹謗中傷もありました。
ある時は、小さい子どもたちにまで「天理が来た、天理が来た」とバカにされ、道で出逢えば横を向かれ、ツバをかけられたこともあったと言います。
親戚知人には、「キツネに憑かれた」と、ことごとく縁を切られる始末。
また、極度の生活苦にも悩まされたと言います。
しかし、酉松にとってそれらは大したことではなかったのです。死んだはずの息子が生きている。大切な息子の命を助けていただいた。そのことに比べれば大したことではなかったのです。
そして教会設立へ
そんな中、酉松を慕う者、協力する者が少しずつ増え、その者たちも熱心に布教に歩くようになっていきました。
そして時は大正14年。
天理教は教祖四十年祭という節目に沸き立ち、教勢倍加運動を提唱します。
教勢倍加運動とは、読んで字の如く、教会や教信者の数を倍化せよというものでした。
徐々に寄り集まる人が増えていた百石集談所にも「そろそろ教会へ」という雰囲気が出てきていたのでしょう。この辺りの詳細な事情は記録がないため、自発的だったのか促されてなのかはよくわかっていません。(恐らくどちらもあったでしょう)
いずれにせよ、こうした流れの中で天理教百石分教会は初代会長に小向金之丞をもって設立をみたのです。
酉松65歳、金之丞41歳のことでした。
金之丞の命を救われたあの日から25年。あの日酉松が交わしたたった一つの約束が、金之丞だけでなく、大勢の人だすけに繋がり、教会設立にまで発展したのです。
あの日、死の淵を彷徨っていた金之丞が初代会長に就任するなど、だれが予想できたでしょう。
あの日交わした約束
「この子が助かったなら、神様のご命令通りどこまでも勤めさせていただきます。」
この約束は脈々と受け継がれ、姿や形は変えながらも今日まで途切れる事なく続いているのです。
この約束を胸に、今日も今日とて世のため人のため、天理教百石分教会の歩みはつづいていくのです。

