天理教百石分教会は2025年に創立100周年を迎えます

天理教百石分教会について②

天理教百石分教会について

すべての天理教の教会には設立に至までの物語があります。

こんにちは、夫婦円満サポートをしている天理教百石分教会長の小向善幸です。

天理教百石分教会設立物語の第2話をまとめますが、まだ1話を読まれていない方はこちらからどうぞ。

天理教百石分教会について
天理教百石分教会は、大正14年11月5日に青森県上北郡の旧百石村(現おいらせ町)に設立されました。天理教の教会は「よふぼく」と呼ばれる熱心な信者が特定の人数以上いなければ本部からの設立許可がおりません。つまり、本部側から「あそこに天...

それでは第2話スタートです!

酉松の布教活動と天理教弾圧

天理教によって死ぬ寸前だった1人息子が助けられ、その奇跡を目の当たりにした酉松はとにかく布教に歩きました。

神様と交わした約束だったとはいえ、天理教が大嫌いだった人間がここまで変わるんですから、人間捨てたもんじゃないですね。

とはいえ、布教活動は実に厳しい現実があったようです。

何しろ当時は、国の内務省から「秘密訓令」というものが出されていて、警察によって厳しい取り締まりにあっていたのです。

秘密訓令とは、明治29年4月6日、内務省訓令甲第十二号で、天理教をつぶせという内容のものでした。

警察に追い回されたり、一般民衆の笑いそしりを受けたことはざらにあったようです。

ある時は、小さい子どもたちにまで「天理が来た、天理が来た」とバカにされ、道で出逢えば横を向かれ、ツバをかけられたこともあったと言います。

親戚知人は世間体を気にしてか、キツネに憑かれたと思ったのか、ことごとく縁を切られる始末。

また、極度の生活苦にも悩まされたと言います。

小向家は決して家柄が悪い方ではなかったようで、むしろ良い部類だったようです。

第二次世界大戦に徴兵された祖父は、青森県から3人しか選ばれていない近衛兵の内の1人だったそうです。

近衛兵は家柄も良くまた、容姿端麗であることが求められていたとか。

酉松は非常に剛胆てパイオニア精神の持ち主だったようで、政府と掛け合って土地を開拓しまくっていたようです。

お金はあまりなかったようですが、土地はかなりあったとようです。

いまでも通称「天理堀り」と呼ばれる堀りがあって、その堀は酉松が開拓して作ったものだといいます。

この事実を踏まえた時、なぜ生活苦に悩まされていたのだろうかという疑問がわきます。

その答えはいまとなっては誰にもわからないことですが、私の推測では、それくらい布教活動に歩いていたということではないかと思います。このエピソードは初代会長である金之丞の手記をもとにしているので、当時の金之丞の感情がベースになっているのではないかと思うのです。

金之丞をたすけていただいた時、「明日に乞食になってもいい」という台詞が思い起こされます。

死んだと思った1人息子が生きている。助けていただいた。

その喜びは何ものにも代え難かったのでしょう。

警察に叱られても、民衆にバカにされても、親戚から縁を切られても、金之丞が助けられた事を思えば何ともなかったのです。

乞食になってでも人だすけをするのだ。そんな気概で食べる事も寝る事も忘れて布教に歩いていたのかもしれません。

そして教会設立へ

そんな中、酉松を慕う者、協力する者が少しずつ増え、その者たちも熱心に布教に歩くようになっていきました。

そして時は大正14年。

天理教は教祖の40年祭という節目に沸き立ち、教勢倍加運動を提唱します。

教勢倍加運動とは、教会と信者の数を倍に増やすくらいの気持ちで世のため人のためにがんばろうぜ、というものでした。

その煽りを受け、徐々に寄り集まる人が増えてきていた百石集談所にも「そろそろ教会へ」という雰囲気が出てきていたのでしょう。

自発的だったのか促されてなのかはハッキリしないところですが(恐らくどちらもあったでしょう)、こうして天理教百石分教会は初代会長に小向金之丞をもって設立をみたのです。

酉松65歳、金之丞41歳のことでした。

金之丞の命を救われたあの日から25年。あの日酉松が交わしたたった一つの約束が、金之丞だけでなく、大勢の人だすけに繋がり、教会設立にまで発展したのです。

しかも、あの日死の淵を彷徨っていた金之丞が初代会長に就任するなど一体だれが予想していたでしょう。

あの日交わした約束

「この子が助かったなら、神様のご命令通りどこまでも勤めさせていただきます。」

この約束は脈々と受け継がれ、姿や形は変えながらも今日まで途切れる事なく続いているのです。

この約束を胸に、今日も今日とて世のため人のため、天理教百石分教会の歩みはつづいていきます。

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