天理教百石分教会は、大正14年11月5日に青森県上北郡の旧百石村(現おいらせ町)に設立されました。
天理教の教会は「よふぼく」と呼ばれる熱心な信者が特定の人数以上いなければ本部からの設立許可がおりません。
つまり、本部側から「あそこに天理教広めたいから教会作ろう」「代表者は君ね」という感じで作られる訳ではないんですね。
天理教の教会は16678カ所(内 海外に326カ所。2019年12月現在)ありますが、その教会一つ一つに設立に至るまでの物語があります。
この記事では、天理教百石分教会の設立に至るまでの物語を出来るだけわかりやすく記してみたいと思います。
天理教が大嫌いな小向酉松が入信した理由
時は今から遡る事約120年前の明治33年。世の中ではコレラや赤痢が蔓延し恐ろしい程の死者を出していました。
私の高祖父(ひいひいおじいさん)である小向酉松(以下:酉松)は当時40才。
その年、若干16才の1人息子小向金之丞(以下:金之丞)が赤痢にかかってしまったのです。
赤痢:もと法定伝染病の一つ。赤痢菌・赤痢アメーバが飲食物について大腸にはいり、腸粘膜をおかして激しい下痢を起こし血便を出す病気。
酉松は医者や薬といろいろに手を尽くしますが、事態は一向に進展しません。そうこうして手をこまねいている内に病気はますます金之丞の体をむしばみ、ついには「今晩が山」という状態にまで陥ってしまったのです。
「金之丞さんが亡くなったそうだ」
「若いのに可哀想なことだ」
村では金之丞が亡くなったという噂が広がり、お悔やみに来る人もおられたそうです。
酉松も妻のりえも半ばあきらめかけていたのでしょう。りえの実家へ知らせろということで、親戚に頼んでりえの実家がある吉田村(現六戸町吉田)知らせに走ってもらいました。
この吉田村には山内福助(以下:福助)という天理教の信者がいて、「その人に頼んでみてはどうか」ということになり、早速そこへ行ってお願いに上がりました。
しかし運悪く福助は留守。
その後奥さんから連絡を受けた福助は急いで百石村へ駆けつけてくれました。
そして福助は酉松に向かい、
「助かるも助からないも親の心一つにある」と告げたそう。
酉松はぐっと息をのみ、静かに目をつむり考えます。
そして、
「オレの心一つで助かるなら、オレはどんなこともする。明日に乞食になってもいい、天理教は大嫌いだが、オレはこの子を助けたい。」
福助は、
「その決心なら助かる。きっと助けていただける。その心を定めてお願いするから、お前もその心でお願いしなさい。」
と言って「おさづけ」をして下さった。
おさづけとは特定の条件をクリアした熱心な信者にだけ許される、病気や怪我の救済手段
この時のやり取りは、当の金之丞本人は死の淵をさまよい意識を失っていたので、おさづけをしていただいたことも何も知らない、と手記に記されています。
その夜、酉松は板の間に正座して、
「神様、どうか金之丞を助けて下さい。私はどのようにも改心します。この子が助かったなら、神様のご命令通りどこまでも勤めさせていただきます。」
灯明を明かしながら、夜が明けるまで一睡もせずに祈り続けたのです。
金はなくても心一つで助かる
「起きたい」
翌朝になって金之丞が見事に目を覚ましたのです。
周りのみんなは驚きに驚いたといいます。昨夜にもどうかと言われ、「もうすでに死んだ」とかお悔やみまで言われた金之丞がいま正に息を吹き返したのです。
不思議な奇跡を見せられた一家は喜び勇んで信仰に励むようになります。
隣近所に病人が出ると、神様へのご恩返しにとお助けに走ったといいます。
酒屋の旦那も赤痢にかかって死んだ。
「金で助かるなら酒屋の旦那は死ぬはずはなかろう。金はなくても心一つで神様は助けて下さる。」
酉松はそう信じてお助けに奔走したのです。
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