AIに相談できる時代に、教会はなんのためにあるのか

先日、こんな投稿を目にしました。

入信の入り口として機能していた悩み相談は、現時点でも宗教者のほとんどがAI以下のアドバイスしかできない。

AIは24時間いつでも、何時間でも、怒らずに相手してくれる。そんなの人間には無理です。

信仰する場は残るかもしれないけど。

— SNSより

「そうだよな」と思ったと同時に、なんか言葉にならないモヤモヤがありました。
それが何なのか考えてみました。

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AIの方が上手いに決まっている

AIは24時間対応できます。怒らない。疲れない。膨大な情報をもとに、整理された言葉を返してくれるでしょう。 悩みを打ち明けたとき、的外れなことを言ったり、説教を始めたりもしません。

それに比べて、宗教者はどうでしょう。 自分の経験や価値観にひっぱられてしまいます。
「それはこういうことだよ」と、相手が求めていない答えを押し付けてしまうことも少なくないでしょう。

悩みを「解決する」という意味では、AIの方が上手いに決まっています。その精度は今後ますます上がっていくのでしょう。

でも、この教会がやろうとしていることは、そこじゃない

悩みを解決することより、一緒にいること。
答えを出すことより、同じ場所に座っていること。

AIに話を聞いてもらったあと、画面を閉じたら一人です。 言葉は返ってきても、隣に誰かがいるわけじゃありません。 温かい飲み物を出してもらえるわけでも、笑い声が聞こえてくるわけでも、沈黙を共にできるわけでもありません。

人は、答えだけを求めているわけじゃないと思っています。 「ここにいていい」と感じられる場所を、どこかで探している、 そう考えています。

何かを始めてもいいし、何もしなくてもいい。
信仰したって構わないし、信仰がなくても居ていい。

AIにできないからではなく、それが私のやりたいこと

AIは「場所」にはなりうるでしょうか。

ふらりと立ち寄れる場所。 顔を知っている人がいる場所。 何もしなくても、そこにいられる場所。

教会がそういう場所であり続けることができれば、 AIが相談相手として優れていることとは、別の話として成り立つと思っています。

もちろん、そんな場所を作るのは簡単ではありません。 うまくいかないことの方が多いでしょう。 それでも、そこに教会の可能性を感じています。
「AIにできない」からではなく、それが私のやりたいことなのだと感じています。
だからこそモヤモヤを感じたのかもしれません。

ゆるやかにつながる。
そんな場所を、たくさんの「あなた」と一緒に
作ったり、作らなかったり。

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